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  坂東札所について

 坂東とは、坂の東という意味で、箱根峠や足柄峠の東の地方のことをいいます。
 
 「西国の観音霊場を中興された花山法皇は関東へも下向され、各地を巡って観音霊場を創設されました。」と、一番札所の杉本寺の縁起や伝説などでは
花山法皇を創始者としています。しかし、史実によれば、西国は応保元年(1161)覚忠が75日を要して三十三ヵ所を巡拝した記録(「寺門高僧記」)があり、
平安時代の末頃より観音巡礼は行われていました。
 一方、坂東は、源頼朝が鎌倉に幕府を開き政治の中心が関東に移り、やがて安定すると、観音信者であった源頼朝は、各地の勢力のある豪族などに、
有力な寺院を推挙させ源実朝にいたって、その寺々を札所にしたといわれています。
  旧陸奥一宮の都々古別(つつこわけ)神社で所蔵する十一面観音像の台座には、三十三ヵ所の巡行をしている沙門(僧)成弁(じょうべん)が
八溝山日輪寺に三百日参籠し、この間都々古別神社の別当と出会い、別当の希望で大和長谷寺の本尊に模した十一面観音像を
天福二年七月十九日に造立したと記されています。
ここでいう三十三ヵ所は坂東の札所を指しており、天福(1233〜34)の頃には坂東観音霊場は成立していたと推察されています。
 それが室町時代の中期以降になると、一般庶民も巡拝するようになり、その顕著な例が、足利鑁阿寺(あしかがばんなじ)の本堂修理中に発見された
六枚の坂東納札で、これによって一般の間にも巡礼が行われていたことが知られています。
 また、中尊寺の延徳六年(1494)や岩手県一戸町鳥海西芳寺の大永七年(1527)の納札、秩父法雲寺の天文四年(1535)の納札、
笠森寺の天正十年(1582)の納札などからもうかがうことができます。
 
                  平成20年11月2日 〜 平成21年5月6日
 一日目 鶴岡八幡宮、一番札所〜四番札所、高徳院
 二日目  五番札所 〜  八番札所
 三日目  九番札所 〜 十一番札所
 四日目 十二番札所 〜 十四番札所
 五日目 十五番札所 〜 十六番札所
 六日目 十七番札所 〜 十八番札所
 七日目 十九番札所 〜  廿番札所
 八日目 廿一番札所
 九日目 廿二番札所 〜 廿四番札所
 十日目 廿五番札所 〜 廿六番札所
十一日目 満願寺、廿七番札所〜廿八番札所、新勝寺
十二日目 廿九番札所 〜 卅一番札所
十三日目結願 誕生寺、卅二番札所〜卅三番札所
お礼参り 善光寺、北向観音
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                                 坂東十二番札所 慈恩寺 玄奘三蔵法師霊骨塔